令和2年度东京大学入学式
来宾祝辞


令和2年度 東京大学入学式 来宾祝辞
新型コロナウィルスの胁威の下、东京大学入学式は変则的な形をとることになりましたが、日本の夸るこの大学に入学を许された皆様方お一人お一人のこれからの4年间が実り豊かなものになることを心からお祈りします。皆様の入学に当たって挨拶できるというのは、私にとって大きな名誉であります。ここでの4年间は、东北地方の小さな町で生まれ育った私の人生を変えたともいえるものでありました。
今、日本の大学は大きく変わろうとしています。スーパーグローバル大学創成支援事業に選ばれた大学は、東京大学を含み教育においても研究においても世界に開かれた、トップレベルの国际交流を行う努力を要請されています。東京大学も五神総長が掲げる大きな目標の下に進もうとしています。とはいえ、元気そのもののアジアの優秀な諸大学に比べて、日本の大学がともすれば、内向きになってしまうのが気になります。もしかしたら高校生の方が、就職を気にする大学生より、元気で意欲的かもしれないと思います。日本が独自の歴史や伝統、特色を保ちながらも、激化する国際競争の中で堂々と勝ち抜いていくことを私は期待しています。しかし「国際社会の中の日本」というものが果たすべき役割と覚悟が、今のままで十分でないという気がしてなりません。
私は1950年に东京大学に入学しました。新制大学に変わって2年目のことでした。大学にかける私の梦は、もっと知的に贪欲なものでした。驹场であるいは本郷で过ごした私の経験は、初めは大教室で聴いた有名教授の讲义にちょっと失望したのですが、少しして、优れた多くの先生方の新鲜かつ刺激に富む话に触発されることが多く、のめり込んでいくようになりました。
私はやや生意気で、やたらに质问をする学生でした。第二次大戦中の画一的な教育に対する反発もあり、目まぐるしくスローガンが変わる戦后民主主义にも懐疑的な世代に属していました。そんな若者の一人として、自分では答えられない大きな疑问が心にうずいていたのを思い出します。
私は自分が専门にやりたい领域がなかなか见つからず、あれもこれも勉强してみたかったのです。新设の教养学科に行ってみるしかないと考えました。しかし教养学科の中でも自分の研究领域を狭めることができないままに、大学院に进むことになり、结局フルブライト留学生に応募し、渡米することになりました。専门を限定出来なかったのは困りましたが、常に広がっていく领域には、たまらない知的好奇心をそそられるものがありました。学士论文はトマス?ジェファソンの政治思想を选び、英语で书きました。
関心をそそられるテーマは、アメリカ人学者が教えてくれた文化人类学もあり、「菊と刀」を书いたルース?ベネディクトの方法论を使って、日本社会を分析してみるなど、兴味をそそられました。この先生は自宅のお茶の会に毎週学生を招いてくれました。そこで会ったアメリカの若者たちとの活発な议论でやり込められた私は、悔しさのあまり、英字新闻の社説をいくつか暗记して、対抗しました。英语上达の秘诀は、议论でやり込められた时の悔しさだったと思い出しています。世上にいわれる流畅な英会话を话すことより、文法や语汇や惯用句を土台として、论理的に话すことが肝心だと思っています。大学の卒业式は欠席するはめになりましたが、それは香港で开かれた国际ワークキャンプに参加するため、小さな货物船で船酔いに悩まされながら东シナ海を渡ったせいでした。
1956年12月、戦后日本はやっと念愿していた国连加盟が叶えられました。私はたまたま留学していた小さな大学院大学フレッチャースクールの见学旅行で、国连総会议场で展开された日本の加盟式典を自分の眼でみることができました。アジアを代表して日本の加盟を歓迎してくれたインド代表の暖かい言叶や、戦后日本にどの国よりも亲近感を抱いたアメリカ代表による喜びの言叶の后、わが国を代表して话したのは重光外相でした。彼は訥々とした、しかし考え抜かれた英语で、国际连盟脱退以来、世界から孤立していたわが国が、やっと国际社会に復帰した率直な喜びと、これからの世界で念愿の新しい国际协力の道を歩む决意を、堂々と述べました。
日本加盟のシーンを目撃した后で、旧知の国连事务局政务部长のジョーダン氏を表敬しました。私の発表をウィスコンシン州で闻いたことのある彼は、私に事务局の政务担当官として応募してみないかと勧めてくれました。いずれ日本に帰って教职につきたいと考えていたので、はじめはあまり兴味を示さなかったのですが、ついに説得されました。その结果、重光演説から2カ月もたたないうちに、国连ビル35阶に小さな部屋をもらって、仕事を始めることになりました。それがついに40年になってしまうとは、当时梦にも想像できなかったことでした。
国连事务局で与えられた最初の仕事は、前年1956年秋にソ连によるハンガリーへの军事介入があり、そのため开催された紧急特别総会で、ソ连に対し厳しい批判が行われ、その真相を报告するようにとの事务総长への要请がありました。早速、报告书作成のためのチームが作られ、私も参加しました。政务部では、全く违う国々出身で、言语も教育制度も异なる职员たちが十数名集められ、约2か月间不眠不休で作成したその报告书は、国际的な评価に充分耐えられるものでした。バラバラの国々から集められた混成部队が、よい报告书を作ることができたのは、国际公务员制度に対する私の信頼を深めました。
ハンガリー事件とほぼ同じころ、エジプトによるスエズ运河国有化に始まる中东危机が発生し、イギリス、フランス、イスラエル叁カ国によるエジプト侵略が起きたのに対し、アメリカ、ソ连、非同盟诸国による大きな反対がありました。ハマショルド事务総长とカナダのピアソン外相は、国连宪章に规定のない国连紧急军の创设を総会に提案し、圧倒的支持のもとにそれが中东に派遣され、事态を正常化するのに大きな贡献をしました。その功绩によってハマショルドとピアソンの二人は、ノーベル平和赏を授与されました。国连宪章に规定のない平和维持军の创设は実に鲜やかなものでした。日本だったら、まず法律や宪法の规定があるかどうかについて、长い论争が起きたに违いないと考えられます。现実のニーズに基づき国际政局の难局に际し见事に対応した国连は、世界を惊かせることになりました。
1970年代になって、私は国连を休职し外务省入りをすることになり、日本政府国连代表部の一员として、国连予算や人事などを审议する第5委员会を担当することになりました。国连行财政に関する専门委员会にも选出されました。私は、分担金に関してかなり大きな额を支払う日本が国连で果たすべき役割を考えたり、より合理的な国连の政策决定のあり方がないだろうかなどと考えていました。国连の国际公务员制度と日本の国家公务员制度の両方を経験するのは、兴味深いものでした。合理的でややドライな国际公务员制度と、日本的でやや情绪的でもある国内公务员制度の両方とも経験したおかげで、自分の仕事に多少厚みがついたのではないかと思います。
1979年に事务次长として、事务局に戻ることになりました。その后18年间に亘って、広报、军缩、そしてカンボジアと旧ユーゴスラビア二つの平和维持活动をそれぞれ担当する事务総长特别代表をやり、最后に人道问题担当事务次长をやりました。仕事はそれぞれに兴味深く、异なる课题に取り组むやりがいを感じるものでした。时间の関係で、カンボジアの平和构筑に当たった経験と、同じ笔碍翱といっても全く异なる旧ユーゴスラビアの厳しい体験について、ごく短く触れます。
米ソが対立した冷戦时代がやっと终わり、安堵の息をついたポスト冷戦期の世界でしたが、国连がまず手がけたのは、约20年に亘って悲惨な国内纷争を経験したカンボジアにおける笔碍翱でした。第二世代笔碍翱ともいうべき多层的な平和维持を行い、この国に平和と民主主义を树立するという壮大なものでした。常任理事国以外では、日本、インドネシア、オーストラリアなどが热心にそれを推进しました。これらの国々は、野心的な约二万二千人の笔碍翱の支柱になりました。ブトロス?ガリ氏が事务総长に就任するその前夜に、彼の泊まったホテルに呼ばれた私は、カンボジアでの特别代表の仕事を提案されたのです。晴天の霹靂でした。
カンボジア笔碍翱を担当するに当たって一番心配したのは、カンボジアの世袭君主であり抜群の能力を持つシハヌーク殿下と国连代表の私の间に信頼関係が维持できるだろうかということでした。幸いにして殿下と私との関係は、全体としてきわめて良好に保たれました。
次に、カンボジアの主要な4政党と私との协力関係を保つことでした。心配したのは、ポル?ポト派、いわゆるクメール?ルージュが、一旦合意したことを取り下げ、ついには国连に対する非协力に変わったことでした。手を変え品を変えて説得に努めたのですが、私の説得にも拘らず、ポル?ポト派と国连との衝突事件を起こし、犠牲者も次々にでました。それでも1993年5月には国连による民主选挙が実施され、世界中のメディアがほとんど、国连による选挙がポト派の大攻势によって悲惨な结末に终わることを予言していたにもかかわらず、现场の私たちは尽くせるだけの悬命な努力を続けたのです。平和を希求するカンボジア选挙民の実に约90%が当日、喜々として投票所に駆けつけてくれました。最悪に备えつつも、最善を尽くした甲斐があったといえるでしょう。
大成功できたカンボジア笔碍翱の后、私を待っていたのは旧ユーゴスラビアにおける、さらに大规模な、平和维持というより平和强制ともいえる困难をきわめる活动でした。友人の多くは、「ユーゴスラビア笔碍翱は民族や宗教の全く异なる叁者の间の泥沼であり、おまえが引き受けるべきではない絶望的な仕事だ」と忠告してくれました。しかし成功の可能性のある仕事だけに取り组むのは国际公务员らしくないと考えました。当事者の全部が賛成してくれる活动でないので、国连が本来従事すべき平和维持とはいえないのですが、ブトロス?ガリ事务総长との信頼関係もあり、多くの国々の支持もあったので、私は2年近くこれに取り组みました。
问题だったのは、アメリカが狈础罢翱による空爆、空爆と言い続け、地上军を全く派遣してくれないことでした。それに国内の叁当事者の间の関係は极めて険悪で危険に充ちていたのです。和解と和平への进捗はほとんど皆无でした。
抜本的な平和を树立することは不可能でしたが、私は国连の代表として、68人の死者をだした1994年2月のサラエボ青空市场の悲剧の后と、同年4月のゴラジデ危机に际して、セルビア人势力による総攻撃の后、停戦と兵力撤退を确保するため、狈础罢翱南部方面军総司令官のアメリカ人ボーダ提督、セルビア政府のミロセビッチ大统领とそれぞれ深夜まで交渉し、セルビア人势力との妥协を取り付けることができました。この二つの危机を、时间切れすれすれで解决に导くことができました。ガリ事务総长は一贯して、私のしぶとい交渉を支持してくれました。
结局问题の根本的解决のために、95年暮、アメリカと狈础罢翱による介入が行われて、国连笔碍翱は手を引くことになりました。
2000年8月、私の敬爱する国连体験豊かなアルジェリア元外相のブラヒミ氏による「ブラヒミ报告」が発表されました。その中で彼は、「国连には出来ることと出来ないことがある。国连は出来ることに専念して取り组むべきであるし、出来ないことに手を出すべきではない。安保理事会も予算や兵力を惜しむべきではないし、実行不可能な决议を採択してはならない。」という厳しい、しかし纳得できる判断を下しました。カンボジアの成果と旧ユーゴスラビアの挫折の両方を経験した私にとっても、このバランスのとれたブラヒミ氏の纷争解决哲学は、诸手を挙げて賛成できるものです。その后、现在まで国连笔碍翱は大体この线上を歩んできているということができましょう。
私たちは今、新型コロナウィルスというグローバルな试练に当面しています。この现象が求めているのは、世界が一绪になって対応できる効果的な収束ですが、现実の対応の仕方は国々のおかれた状况によってかなりまちまちになるでしょう。日本を世界から隔てるものは、やはり日本の伝统と制度の违いであるといえます。国际化が进んだとはいえ、外国人数がきわめて少ないこの国は、かなり异质的、ガラパゴス的な所があり、大学を含む高等教育の世界でも、それを频繁に感じさせられます。
かつて60年代、70年代には世界を惊嘆させた日本経済でしたが、近年においては労働生产性がかなり低下しており、翱贰颁顿诸国の中でも惊く低さであり、骋7の中で最低であると闻きます。技能実习生という形でアジア诸国から労働力の慢性的不足を充足しているものの、より高度の移民を段阶的に导入することによって、この国の活力を长期に亘って向上させる道を考えるべきではないかと思っています。
戦后世界において、アジアから欧米への留学生を出す点で、日本は先头を切っていました。しかし今では、中国もインドも韩国も、日本をはるかに引き离しています。この现状は残念なことです。高いレベルの研究论文の発表においても、日本からの论文提出はかなり少なくなっていると报道されています。
日本の英语教育もかなり问题を秘めているように思われます。英语は国际语であり、単なる一外国语ではないはずです。にも拘わらず、その习得ぶりにおいて、问题がありすぎるようであります。同时通訳で知られていた村松増美氏は国连を访れた际、「国连で一番使われている言语は何か」と私に闻いたら、「それはブロークン?イングリッシュです」と私が答えたと、まことしやかに伝えられています。私が言ったのは、実は「それぞれの国の人が讹りのある英语を堂々と使っている」ということだったのですが、おもしろおかしく润色脚色されてきたようです。
エチオピアを访问した际、私はアフリカでも杰出したメレス首相と国连改革の问题で一时间ほどみっちり话し、彼の完璧な问题の把握に舌を巻きました。ジャングルからでてきた革命军の指导者とはとても思えない説得力でした。どの言语の场合でも、発音や流畅さよりも、论旨と正确さの方が大事ではないかと考えられます。日本人の身についた远虑とはにかみは、よいものでもありますけれども、相互理解の邪魔をしている场合も多いのではないかと思います。
最后に、东京大学から、もっともっと世界を目指す人物が辈出され、その谁もが色々な国々に知己や友人をつくり、一绪になって世界の未来を创っていく日がやってくることを祈ってやみません。
令和2年4月12日
公益財団法人国立京都国際会館理事長?元 国際連合事務次長
明石 康
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