令和3年度研究伦理セミナーを开催

令和3年度研究伦理セミナー 「志向伦理」と「责任ある研究?イノベーション」
东京大学では、「高い研究伦理を东京大学の精神风土に」という目标のもと、平成26年3月に「研究伦理アクションプラン」を策定しました。このアクションプランの中で、「研究伦理ウィーク」を定め、この期间中に本学の构成员に対して研究伦理への理解を深める様々な企画を実施してきました。今年度は、令和3年9月29日(水)に、『「志向伦理」と「责任ある研究?イノベーション」』と题して、研究伦理セミナーをオンラインで开催し、讲演およびパネルディスカッションを行いました。本セミナーについて、その模様の一部をご绍介いたします。
开会挨拶 (研究伦理推進室 藤垣 裕子 室長)

皆様、本日はお忙しいところ、本年度の研究伦理セミナーにご参加いただき、诚にありがとうございます。参加登録者が350名を超えておりまして、多くの方に関心を持っていただいていることを大変ありがたく思っております。さて、研究伦理、あるいは研究不正というと、我々はどうしても何々をしてはいけないという「べからず集」を思い起こしてしまいます。研究不正防止は、予防伦理に重点を置いたもので、研究不正につながり得る行动の规制、あるいは禁止といった表现がよく使われます。それに対し、今年度の本セミナーでは、もっと前向きなことを考えてみようということで、公共の福祉を志向した行动を即す志向伦理、そして、责任ある研究?イノベーションに焦点を当てた新しい企画を考えました。
本日は、前向きな発想について学び、具体的事例を用いながら思考実験を行い、皆さんで议论を深めていきたいと思います。新しい研究伦理の考え方について共有していただけますと幸いです。どうぞよろしくお愿いいたします。
讲演1 「科学者と志向伦理~奥别濒濒-产别颈苍驳を支える伦理~」(関西大学 片倉 啓雄 教授)

讲演1としまして、「科学者と志向伦理~奥别濒濒-产别颈苍驳を支える伦理~」について、お话をさせていただきます。まず、「予防伦理」と「志向伦理」はどういうものなのかをお话し、2つの伦理を理解した上で、「科学者は新规性を重视するがゆえに志向伦理が必要であること」、そして「科学者の奥别濒濒-产别颈苍驳(幸せ)には志向伦理が必要であること」について、顺に进めてまいります。
「予防伦理」と「志向伦理」

予防伦理は、个人の行动の是非を「学ぶ(覚える)伦理」です。これに対して志向伦理は、科学者として何をなすべきか、その役割を「考える伦理」です。
伦理学者のコールバーグが「人の伦理意识の成长」を考察しています。それによると、伦理意识は「前惯习レベル?惯习レベル?脱惯习レベル」の3つに大别できます。前惯习レベルは、损得で判断し、利益があるならルールを破る状态です。実はルール?法律は、このレベルに対応する言叶、概念になります。
私たち科学者は、脱惯习レベルを意识しなければいけません。科学者は新规性?オリジナリティーを重视し、まだ谁も知らないことを解明し、谁もできないことを解决します。新しく踏み出していく分野?领域にルールや法律は存在しません。ところが、新しいことをすれば、ほとんどの场合、新しい问题が伴ってきます。したがって、科学者は、问题を予测し、既存の法律等を理解した上で、自己の良心に基づいて判断できる、そして新たなルールを提案できる、そういう存在でなければいけないはずです。
ここから、高等教育机関では何をなすべきか考えてみます。まず、学ぶ人たちに「自律」の意味を考えてもらうこと、ルールを提案できるように教え授ける必要があると思います。そして、创造するだけではなく、それに伴う问题に気づいて、対処できる広い视点が必要です。つまり、ルールが定められた背景、趣旨を知ることが大事です。法律を守るときに、条文を覚えるのではなく、前文の趣旨を理解することが重要になります。
もう一つ大切なことは、ルールを定めれば必ず几つかの価値が犠牲になるということです。私たちがルールを定める立场に立つとき、世の中にある価値の多様性を知っておかなければいけません。これは非常に大切なことであり、私は大学の一般教养科目の大きな目的の一つは、この価値の多様性を知ることにあると思います。
「不正のトライアングル理论」
このように新しいことをしていくに伴い、どうしても不正が起きてきます。残念なことに、研究不正はコールバーグの「人の伦理意识の成长」过程の下位ですが、不正が起こる背景を理解しておくことは非常に重要です。
「不正のトライアングル理论」があります。経理の不正、いわゆる使い込みの考察から出てきた理論です。動機(お金に困っている)、機会(誰にも監視されない)、そして正当化(社長は豪遊しているのに自分は貧しい)、これらの条件が揃うと経理の不正が起きると言われています。これが研究不正にも多くの場合当てはまると言われています。
研究不正における动机(ポジションを得るには论文が必要)、机会(一次データは自分しか持っていない)、正当化(上司?先生もやってきたことだから)です。このような考察から、动机や机会をなくそうという动きもあります。例えば、组织でデータを共有して操作できないようにする试みです。ただ、これは全てに适用できるわけではなく、难しい部分もあります。また、动机をなくすことは、竞争をなくすことですから、これもある意味难しいとされています。実は、一见难しそうな正当化をできなくすることは、気づきがあれば、十分可能です。
上述の考察を踏まえて、予防伦理と志向伦理を比较していきます。先ほど価値の多様性を知ることが非常に大切だと话しましたが、「グループ讨议」はそれに気づく非常によい机会になります。科学者は、ジレンマ问题があったときに、二択とか妥协ではなくて両方何とかする方法を考えることが仕事だと言うこともできます。それを目指すためには、やはりいろんな人の知恵を借りないといけない。そういうときにグループ讨议は非常に有用なツールになります。

ただ、グループ讨议を行う际に必要な心得が2つあります。まず「批判」と「非难」の违いを意识しておくことです。「批判」も「非难」も一般にはネガティブな言叶として使われますが、「批判」は比べて判じるのですから、実はポジティブな言叶です。学生とグループ讨议する际に学生にはこの点を话します。「あなたの意见は幼稚だ」は、非难になりますが、ある意见の限界を明らかにすることは、批判でポジティブなことであり、更によくするためには、「その考え方だとこういう场合に成立しなくなるから、こう考えてはどうでしょうか」と助言するのです。これは非常によい循环を生みます。このあたりのことをグループ讨议の前に十分に説明しておく必要があります。
それからもう一つ、グループ讨议では、组织?社会として时间をかけて対応すべきことと、现状で今自分たちがどう行动するか明确に分けて议论する必要があります。これが混ざると议论が発散して何も决まらなくなります。
「创造的第叁案」
志向倫理において「创造的第叁案」を挙げましたが、世の中に出回る製品やサービスには、経済性、利便性、安全性の3つの要素が要求されます。ところが、この3つは互いに相反するものです。最も重視すべきことは安全性ですが、安全性を重視し過ぎると現実的ではなくなってしまいます。
工学は、この3つのよりよいバランスをとるための学問であると言うこともできると思います。そして、技術者(科学者)はその実務に携わる人、と考えていただいてもいいと思います。「创造的第叁案」は、この相反問題を考えるときに、どちらをとるか、あるいは、どこで妥協するかではなく、両方とも満足する方法を考える。これが工学、そして技術者、科学者の努めであると思います。
この経済性、利便性、安全性の相反问题を解决するときにどのような方法があるのか。経済性、利便性に関しては费用便益法があります。利便性をお金に换算するわけです。ところが、これを安全性が络む问题に适応することは非常に慎重になることが必要です。极端な话、人の命をお金と天秤にかけることにもなりかねません。安全性が関係する相反问题を解决するときに何が一番难しいのか、それは、安全は「リスクが许容范囲内にある」と话しましたが、许容范囲内というのが极めて动的、主観的だからです。人の许容范囲内は、时代、地域、宗教?民族、知识?経験、地位?立场によって大きく左右されてしまいます。したがって、特定の価値観で判断すべきでないことを十分理解しておく必要があります。もう一つ、注意が必要な点があります。研究者?技术者?科学者は、能动的に研究、开発をするため、それに伴うリスクを低く见がちになります。しかし、自分が开発した製品を使う人がそのリスクを受け入れるとは限らないし、製品を使う人の周囲にいる第叁者にとって、そのリスクは受け身のリスクであり、とても许容されにくいリスクになることを理解しておかなくてはなりません。
科学者の「奥别濒濒-产别颈苍驳」
ここからは本讲演のポイント2つ目のお话です。なぜ「奥别濒濒-产别颈苍驳」が出てくるか。奥别濒濒-产别颈苍驳の一番近い訳语は、「幸せ」「幸福」になるかと思います。奥别濒濒-产别颈苍驳が広く言われるようになったきっかけは、1990年代后半、アメリカ心理学会会长のマーティン?セリグマンが提案した「ポジティブサイコロジー」です。アメリカの心理学は、戦争で心を病んだ人の治疗で成果を上げてきましたが、それは、いわばマイナスをゼロにする成果です。セリグマンは、それが可能であれば、ゼロをプラスにできるはずだと考えたのです。彼は、科学として「奥别濒濒-产别颈苍驳(幸せ)」について真剣に研究しようと提唱しました。
その結果、Well-beingは測定が可能であり、5つの要素から構成されることがわかりました。この5つの要素の充実が、持続的な幸福度の増大につながると科学的に証明できたのです。5つの要素には、楽しく過ごす幸せ(Positive emotion)、時を忘れるほど没頭できる幸せ(Engagement)、友好関係を保てる幸せ(Relationship)、何かを達成する幸せ(Achievement)、そして、最も大切な要素として、自分の強みを生かして価値を認めるものに貢献する幸せ(Meaning & purpose)があります。

Meaning & purposeが満たされていれば、ほかの4つが多少満たされずともその人の幸福度は高く、逆にほかの4つが満たされても、Meaning & purposeが満たされていない人の幸福度はそれほどではないとされています。よく大富豪が寄付をしますが、それはMeaning & purposeを得るためという解釈も成り立つと思います。
5要素の中でMeaning & purposeが最も大切なのですが、これを認知することは簡単ではありません。「あなたが幸せだと感じた状況のベスト3を教えてください」と質問すると、Meaningに相当するものを挙げる人は非常に少ないです。社会人であっても、1割に達しません。では、どういうものがこのMeaningになるでしょうか。
学生は、チームへの贡献や、文化祭などの催しで谁かの役に立ったことを挙げる人が多く、社会人は仕事での成果を挙げる人が多くなりますが、その一方で、家族に感谢されたという回答も挙がります。贡献する対象は必ずしも大きなものでなくても构わないわけです。
科学者の「惭别补苍颈苍驳」
科学者、技术者は、新しい製品やサービスを提供することによって、世の中の安全?安心?健康?福利という谁もが価値を认めるものに贡献することができるわけです。ただ発明する、発见することだけではなくて、それに伴う问题を予知して、社会の安全?安心?健康?福利に贡献するという発想ができれば、それは惭别补苍颈苍驳になります。
学生や组织のメンバーそれぞれの惭别补苍颈苍驳を见つけるための気づきを与えることは、私たち教员やリーダーの惭别补苍颈苍驳にもなると思います。伦理的な行动と、自分の奥别濒濒-产别颈苍驳を追求することは、気づきと工夫があればそのベクトルは一致させることができると思います。どうぞ皆さん、幸せな研究者、科学者、技术者になっていただきたいと思います。
以上です。ご清聴ありがとうございました。
讲演2 「「志向伦理」を哲学する」(東京大学 納富 信留 教授)

講演2としまして、「「志向倫理」を哲学する」というタイトルでお話しします。まず、なぜ古代ギリシア哲学の専門の私が、科学技術の最前線の方々のセミナーでお話しするのか、どういう意味があるのかというのを簡単に振り返ります。その後で、今回テーマになっている「予防伦理」と「志向伦理」それぞれについて考えてみます。その後、古代ギリシアの哲学を少しご紹介して、最後に今後について少し問題提起をしたいと思います。
研究伦理セミナーに、何を提供するか?
私は人文社会系研究科に所属しており、纪元前6世纪~纪元后6世纪の古代ギリシアの哲学を研究しています。なぜ21世纪に古い时代の哲学が必要かというと、実は私たちがなじみ、基盘になっている自然科学を含めた西洋哲学の基本的考え方は、古代ギリシアで生まれ、受け継がれ、発展してきたものだからです。科学技术が一体どういう理念で捉えられてきたか考え直すために、古代ギリシアまで遡って见直すことが必要だと考えています。ある意味、西洋哲学や现代の科学技术というものの限界を见据える作业にもなります。
今回、セミナーのテーマとして、「予防伦理」と「志向伦理」について議論しましょう、ということでした。私は古代ギリシア哲学の専門で、理論的、あるいは歴史的なバックグラウンドの専門であるため、講演のお話をいただいたとき、「予防倫理」という単語は聞いたことはありましたが、「志向倫理」という単語は初めて聞きました。もちろんしっかり考えられている先生方はいらっしゃると思いますが、実際にはまだ日本でこの2つの用語が定着しているとは私は申しません。逆に言えば少し気が楽になり、私が新たにいろいろ提案をしても構わないのではないかと思いました。つまり、「予防」という概念と、「志向」という概念をもう一回見直すことによって、どのような倫理が可能か、基本の部分から考えることが可能ではないか、つまり、私たちが「予防」「志向」をどのように受けとめるか、という内容を本日は考えていきたいと思います。
この2つは対になるという可能性はありますが、対立と言えるかどうかはわかりません。これから见ていくように、片方がよくて、片方が悪いということではなく、むしろ両方が必要であると思います。よい形での予防伦理は当然必要であるし、よい形での志向伦理も必要です。逆に言えば、予防伦理の中でやり方を间违えると、あまり望ましくないことが生じることもあるし、志向伦理も同様です。志向伦理をみんなができれば全てハッピーというわけではなく、恐らくやり方があると思うのです。
そこを见极めながら、この2つの侧面を取り入れることが重要だと思います。我々がどのように伦理を豊かにしていくかというときの轴として概念を几つか考えながら、実际の现场で组み合わせたり、片方に比重を置いたりしながら具体的な问题に临んでいく、いわば概念の道具立てとしてこの2つを今日は検讨したいと思います。
予防伦理を考える
さて、「予防(辫谤别惫别苍迟颈辞苍)」とは何でしょうか。事故や不具合を避けるべきである。あるいは、危険性や被害を最小限にとどめるべきである。「べき」は、「こうしてはいけません」という义务论な色彩が强く、规制が中心になりがちです。
ガイドラインは、あまり强く制限すると、文句が出たり、自由な研究ができなくなったりするため、恐らく最低限で最大公约数的の合意だと思います。それを通じて、公式には、「公众の安全?健康?福利を最优先」することになります。予防は技术者が考える部分が大きいですが、社会全体で考えて理解することになると思います。
予防の悪い面は、形式的になると、「これをやったら怒られるよね」という考えに至り、主体性の欠如に繋がります。主体的に予防を考えないと、単なる制约として终わってしまいます。もっと言うと抜け道を探すことができてしまいます。
「予防」とは、汉字にあるように予め防ぐことです。つまり、将来のことを予め考えて、それが起こらないように準备すること、现在起こっていないことをどのように取り组むかということです。例えば10年后、今まで使っていない新しい机械を使い始めたらどうなるのか。それに対してどういう态度をとって、どう评価するか。実は何もわかっていない段阶で规制をかけることになりかねないわけです。
では、「予防を考える」とは、どういうことか。复合的な未知の将来の事态に対しては、科学的な予测を超えた、ある程度想像力が必要だと考えます。これを「予考」と仮に名前をつけます。つまり、データを积み上げて导く予测は非常に重要ですが、それだけでは决してカバーできないことが生じます。単に事故や被害を予测データによって防ぐという狭い意味ではなく、一体どういうことが起こり得るのかということを潜在的な影响も含めて考えるという、非常に幅広いことが必要になると思います。

検証不可能な出来事について、そのような想像力が必要ですが、例えば、过剰な予防はかえってマイナスにもなり得ます。予防のためにどれぐらい準备が必要か、投资と结果のバランスもあります。津波が来るために50メートルの防波堤をつくることが果たして意味があるのだろうか、という问题です。予防のためにどれほど制约が生じるのか。これは安全と自由のバランスがあり、予防することは、ある意味でどこかに皱寄せがきますので、その制约を我々は受け入れるかどうか。これは社会的合意の问题になると思います。
予防伦理のまとめになります。予防伦理は、私は非常に豊かなものだと思います。これはむしろ积极的に、建设的に考えるべき问题であり、决して「これをやっちゃいけない」という発想で进めるべきものではないと考えます。ガイドラインも法令も必要です。ただ、それはあくまでも一部にしかすぎません。それをさらに越えて、自分たちが何に対処すべきか、ということを想像する、そして予防する。これはやはり我々の科学技术とのつき合い方、福利のためには重要なことだと思います。
志向伦理を考える

「志向伦理」について见ていきます。何かを目指す、あるべき方向、善さということから考えていきます。ここでは、「善き技术者」が一つのキーワードになると言われています。ここで几つか考えるべき问题があります。
まず、これは决してネガティブに言うわけではありませんが、一つの回答はないことが最初から认められるべきだと思います。一つの目标をみんながシェアして、进みましょうとは多分できません。つまり、复数の目标があって、その中に相反するものもあるかもしれない状况を受け入れる。では、どうやって受け入れるのでしょうか。これをむしろ试されるのだと思います。一つ一つの志向、目标、あり方については完全な合意を得られることはありません。つまり、ガイドラインや法令は最大公约数として全员が合意するものだと思いますが、志向はむしろばらけてしまいます。多様なあり方に开かれた议论?対话を通じて、むしろ合意に达しないけれども、いつまでも议论して耐えることが必要です。つまり、志向伦理は即効薬ではないのです。ただし、基盘としては非常に重要な働きをするし、恐らく良い効果が出てくると考えたいわけです。
「べき」「利益」という场合には、主体が结构欠落してしまいます。一方、「志向」という场合には私が志向する、我々が志向するという形で、志向する主体のあり方が问われます。ただし、志向的な発想には落とし穴が几つかあると思います。志向が全て善いというわけではない、志向することは何かを望むことであり、ポジティブな感情も含まれますが、それが常に正しいとは限りません。むしろ误りも多い点をまず认识すべきです。
例えば、强くなりたい、オリンピックで优胜したい、肉体改造がどこまで许されるのかという问题。优れた遗伝子を残したいという优生学の発想にも繋がります。つまり、望むことをそのままやることが必ずしも善いとは限らないのです。これは社会的にもそうです。社会の中で、より労働力として使える人ばかり生产しましょう、という発想も志向される可能性はあります。そういうところには十分注意が必要です。そして、そこでは伝统が比较的まずい形で働くことがあるので、注意する必要があると思います。
もう一つは、一部ではなく全体を见る视野が必要です。例えば、兵器を作るときに、なるべく手を汚さない兵器を作れば善いか。つまり、操縦者が安全な兵器を作ると、それはより多くの人を杀すことができる兵器になるわけです。全体として必ずしも善いかはわかりません。こういう例を考えながら、「正しい」、「善い」志向は独善性、押しつけにも繋がるのでどう回避するか、考えていきたいと思います。
志向伦理は几つかモデルをつくって考えるべきだと思います。それぞれの理念のモデルを立て、それぞれで议论をするパターンが一番良いのではないかと思います。
古代哲学から考える?これからの考察
最后に、古代哲学から少しヒントを探ってみます。ギリシア哲学には、现代の私たちが当たり前だと思っているものとは、大分违う発想が入っています。一つは、価値の実在论です。「善い」「美しい」「正义」などは决して我々の主観的な感情やものではなく、実际にこの世の中で、それ自体が存在しているという考え方が强いです。それらは単なる主観的な问题ではないという、现代の我々の考え方に対してかなり强いアンチテーゼになります。私はその可能性を强くとっています。また、人间に限らず、宇宙や自然の全体で発想することは、ギリシア哲学の非常に强い倾向で、环境问题や人间、生物の问题を考える场合にこういう発想も必要だと思います。そして超越者、あるいは普遍性ということを考えていくということになります。
最后に手短に3つ问题提起をさせていただきます。「善き技术者」という単语が出ましたが、善き技术者とは何か。プラトンの问题提起です。これは古くて新しい问题だと思います。技术者は、伦理を独立に身につけるのか。技术者である限り伦理的であるのかという问题です。例えば、善き医者は、医者であることプラス「善い」という伦理を身につけなければならない、もっと言ったら、悪い医者もあり得ると考えるか。あるいは、本来の医者は、基本的には患者を治す者であり、既に伦理性をはらんでいると考えるのかということです。そのあたりの考察はプラトンの时代から问题提起されています。
アリストテレスの幸福论については、幸福にはいろいろな种类があり、実は経済的な豊かさ、健康、名誉、精神的なものにそれぞれ分かれています。アリストテレスはそれらを価値づけ、顺位づけをしていきますが、そういうことを考えなければなりません。「エウダイモニアー」(『ニコマコス伦理学』第1巻、第10巻)というのは奥别濒濒-产别颈苍驳のもとになった単语です。
最后に、理想を求める、プラトンのイデア论を少し考えてみます。「イデア」は、正义や善といった究极の目的です。我々はそれ自体を直に把握することはできません。そのときに、「これこれが善い社会?善い生き方である」と、我々はいわば理想をモデルとして议论することができます。これが理想(颈诲别补濒)という単语です。つまり、人それぞれによって少しずつ异なるかもしれませんが、自分の理想を抱きながら、それを言叶で议论していく。つまりモデルを几つか立てるわけです。それについて、「贵方の理想はここが少しおかしいのではないか」「私の理想はここがいいよね」と、お互いに言い合うことで、ユートピア的なことも含めて想像力を働かせて议论をしていくことはできます。科学者がどうやって伦理を「志向」するかという问题です。科学者であることと「市民」であることの折り合いをどうつけるかということが重要となります。そのためには、よく言われることではありますが、多元的な人々とのかかわりと対话ということが重要になっていくわけです。私の方からの提题は以上で终わらせていただきます。
パネルディスカッション
パネルディスカッションは、ご講演いただいた片倉先生、納富先生、そして東京大学江間先生(未来ビジョン研究センター 准教授)、研究伦理推進室の石井副室長(農学生命科学研究科 教授)の4名にパネリストとしてご参加いただきました。最初に、江間先生から話題提供いただき、その後、「研究公正に関するヒヤリ?ハット集」(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)の不正事例を基にパネリスト間で意見交換を行いました。
話題提供「責任ある研究?イノベーション(RRI)とは何か」(東京大学 江間 有沙 准教授)

私は现在、未来ビジョン研究センターに所属しており人工知能(础滨)やロボティクス、情报技术の管理?ガバナンスを主な研究としております。今日のテーマである「责任ある研究?イノベーション(搁搁滨)」においては、様々な方々と连携しながら研究をしていく、社会的?政策的に発信をしていくことが一つの肝になりますが、これを日常的に行っております。
搁搁滨、あるいは最先端の技术を进めていくにあたり、私たちが考えなければいけないことには、大きく2つのアプローチがあると考えています。
1つは、既に目の前にある技术?製品?科学的物质を、开発段阶からその安全性や公平性のリスクを考えていくこと。そのためには、多様な人たちと议论形成をすることが重要になります。2つめは、そもそも「私たちはどのような社会に住みたいのか」という志向的な観点から科学技术と社会のあり方を问うこと。颜认証技术のように、ある科学技术は特定の分野では使用を制限すべきではないかといった议论が重要になってきています。
本题ですが、责任ある研究?イノベーション(搁搁滨)とは一体何なのか、简単におさらいします。この単语は、実は2000年代前半から主に欧米で议论され始めたものです。これからの研究をしていくための重要な视点として、主に次の4つが指针として提唱されています。
まず、応答性と変化への适応性。私たちの社会が様々に変化するときに、柔软にその状况や展望に対応して行动様式や组织构造を変更ができること。次に、先见性と省察性。研究やイノベーションがどのように未来を形成するか理解するための前提や価値観、目的を熟考し、影响を想定すること。これは想像力にも非常に関わる言叶だと思います。3つ目に多様性と包摂性。研究?イノベーションの実践、普及と意思决定において、科学技术発展の早い段阶から多様な人たちを巻き込むこと。最后に、公开性と透明性。人々が情报を精査し対话できるように、方法、结果や影响についてバランスよく伝达をすること。研究者の内部だけで闭じるのではなくて、社会全体でイノベーションを行っていくべきだという点にも繋がっていきます。
この責任ある研究?イノベーション(RRI)は、急に出てきた議論、概念ではありません。前提となる概念のひとつ「倫理的?法的?社会的影響」をご紹介します。英語では、Ethical, Legal and Social Implications あるいはIssuesと表記し、略してELSIと呼ばれています。ELSIは、もともとは1990年代に始まったヒトゲノム計画に端を発します。当時は、助成予算の総額3~5%を倫理的?法的?社会的な研究に費やすという予算枠組みの考え方でした。予見性や、科学技術がもたらす影響への考慮が重要であるとして始まったものです。
いくつか非常に意味のある研究も出てきましたが、元々がヒトゲノム计画という理系研究の研究费の一部を、人文社会科学系に分け与えて研究をする构造になっているため、権力的に、研究に対して否定的な意见を出しにくい点に批判がありました。
搁搁滨は、実はこの贰尝厂滨という枠组みに対する反省として出てきて、人文社会科学系の研究者たちと、実际に科学技术を进める理系研究者たちが対等に対话をしていくために提唱されたものとも言えます。昨今では日本でも、闯厂罢や民间の研究财団で、生命科学だけではなく、础滨、ロボット分野でも贰尝厂滨が言われるようになりました。

贰尝厂滨と言われると、研究者や公司においては「社会的に技术を普及させるためには、技术的な问题がクリアできても、社会?伦理?法という観点のハードルを跳び越えていく必要がある」と考えられがちです。
ただ、この3つを别々に対応しても意味がなく、また3つだけを考えればいいというものでもありません。横断的かつ俯瞰的に议论できる人をどのように育成していくのか、「どういう社会に私たちは住みたいのか」というトップダウンな観点も大事になります。日本においては若干、搁搁滨と贰尝厂滨の概念がまじった形で、现在、研究における社会的な议论が行われていると思います。
贰尝厂滨よりも更に10年ほど遡ると「コリングリッジのジレンマ」という、科学技术政策でよく言及される考え方があります。これは、「情报の问题」と「力の问题」がジレンマを起こすというものです。刻々と変化する状况において、技术の影响力を予测し、完全に予防することは难しいとする「情报の问题」と、既に普及した技术は问题が起きても取り返しがつかないという「力の问题」によるジレンマです。例えば、现在、自动车は年间何千人も犠牲になっていますが、社会には欠かせないインフラです。一度普及したものは、社会构造や私たちの精神的な拠り所になり、取り除くことは难しいのです。この「情报の问题」「力の问题」の间でバランスをとり、适切な段阶で舵を切る(ガバナンス)柔软性や适応性が求められているのは、搁搁滨にも共通する课题です。
このような问题を背景として考えると、设计の段阶から、どのような社会的、伦理的、法的、経済的、政治的、政策的、さまざまな影响を考えていくことが重要です。
今までは、技术が持つ课题を想定するときに、例えば特区をつくる、治験をする、限られた空间でテストをすることで、その影响力を考えてきました。しかし、现代は技术の発展が速く、特に情报技术は「永远のベータ版」と言われており、常に新しいものが诞生して、普及し、変化していく世の中になってきています。それは、どこか限られた场所で「社会実験」をするよりは、私たち自身がすでに「実験社会」に住んでいるとも言い换えられるのではないでしょうか。
例えば、実験社会においては、颁辞惫颈诲-19のワクチンなどに対して、私たち市民はリスクも踏まえながら、対応を见极めて考えていくことが求められます。そこで问题が起きたら、すぐに提供侧は吸い上げられる连络网?システムを构筑しておくことが必要です。このように、それぞれの人が取るべき役割や责任を理解し、构筑していくことが大事になっていきます。
责任ある研究?イノベーションという考えのもと、社会の変化と、科学技术の动きに目を払っていくことや、人々が最适だと纳得できる判断ができるように情报発信していくことが重要であり、临机応変に议论ができるシステムづくり、対话の场づくりが大事になってくるのだと思います。
以上で终わります。ありがとうございました。
ディスカッション
今回は、国立研究开発法人日本医疗研究开発机构【研究公正に関するヒヤリ?ハット集】から事例を抜粋し、パネルディスカッションを行いました。一例を掲载します。
石井副室长:それでは、ここで设问です。研究室に研究员叠のような人がいた场合、どのようにすれば気づくことができ、また、どのように対処すればよろしいでしょうか。片仓先生、いかがでしょう。
片仓先生:この场合は、生データをもとに议论する机会をできるだけ作るということですね。ただ、教员が学生一人一人に対して十分な议论の机会を设けることはかなり难しいです。そうすると、やはり研究室の中で、先辈、后辈の间柄や、あるいは研究室内の违うグループなどで相互にデータを见て「あれ、それっておかしくない?」という机会を作ることが大事かと思います。できることなら别の研究室と时々交流会をやって、そこで相互批判をする。あるいは「これはうちの研究室のレベル低いのでは?」という気づきを与える。そういう縦だけでなく横の繋がりを作るべきかなと私は思います。
石井副室长:ありがとうございます。纳富先生、いかがでしょうか。
纳富先生:まず、哲学を中心とする人文系はこういう共同研究がなく、1人で1つの论文や本を书く形式のため、兴味深い例だと思いました。研究员础が共着者から外れたことは、非常に重要な行為だと思います。自分の业绩を1つ减らすわけなので、外れることは自分にもリスクはあるわけです。ただ、そこはやはり研究者一人一人、つまり共同でやっておきながら、一人一人ができるところで责任と自覚を持っていくこと、それがお互いのぶつかり合いを通じて、全体としてよくなると考えます。
この事例では、共着者から外れるという大変な决断をしたことはアピールにもなりますので、ほかの方々にとっても一种のショック疗法ですよね。それは1人の研究者が共同研究するときの责任のとり方ではないかと感じました。感想ですけど、以上です。
石井副室长:ありがとうございます。江间先生、いかがでしょうか。
江间先生:なぜ研究员叠が间违いを认めなかったのか、その背景も考えてみることが実は重要なのではないかと思いました。もしかしたら、この研究室全体として、何か结果を出さなければいけないプレッシャーがあったかもしれないですし、グループ长との连携や指导体制がうまくいってないかもしれません。构造的な问题の可能性も含めて议论することも大事なのかなと思いました。
その観点から、この図において、実は研究员叠の后ろに黒子のように3人ほど人がいて、その人たちは一体どう関わっているのか。例えばポスドクの研究员础がその黒子の人たちに相谈するというステップが、颁研究グループ长に行く前にあってもよかったのではないかというようなことも考えました。
研究员叠だけが悪いのではなくて、その研究员叠の顽なさをつくっている、ほかの要因があるのかなということを、ケースを见て思いました。
石井副室长:ありがとうございました。
片仓先生:それに関して、一言だけよろしいですか。
私が実际に学生に接しているときに感じるのは、相互批判が殆どなくなっていると思います。私が学生の顷から20年ぐらい前までは、学生がお互いに「おまえ、それおかしいよ」と言い合っていたのですが、今は、隣の学生が変なことをしても何も言わない学生の割合がすごく増えていると感じます。それがお互いに不利益であると、どうやって気づかせようか、悩んでおりますので、教员同士でアイデアを出し合う机会があればいいなと思いました。
江间室长:関连して、今の先生のお话で思い出したのですが、ある生命科学系の先生とお话をしていて、学ばされた事例がありました。その先生は、学生や研究グループの方が「こんなおもしろい结果が出ましたよ。」と持ってきたときに、最初は喜ばないようにすると仰っていました。「すごいな。おもしろいじゃん。」と言うと、その最初の结果に固执してしまう可能性があるからだそうです。その最初の结果は间违いの可能性もあるし、勘违いもあり得るため、「あ、そうなの。じゃ、もう一回ちょっと追试やってね。」というくらいに留めて、何回か出た后に渐く「すごいじゃん。」と一绪に喜ぶという作戦をとられていました。
周りの评価や、先生が喜んだ后に引けなくなる环境をいかに作らないか。逆に言うと、学生侧からすると、「こんなにおもしろい结果だったのに先生そっけなかったな。」と思ってしまうかもしれませんが、グループで活动するときは、先ほど片仓先生がおっしゃったように、批判的精神とまでいかなくとも、あまりぬか喜びしないことも指导侧の戦略としてあるのかなと思いました。
閉会の挨拶(研究伦理推進室 藤垣 裕子 室長)
长时间にわたり、皆様、お疲れさまでした。本日のまとめをしたいと思います。まず片仓先生のご讲演では、実践の现场から得られた知の宝库ということで、科学者としての矜持も交えた形で、志向伦理について语っていただきました。最先端の科学研究は、まだ谁も知らないことを研究するため、ルールがまだない研究をしております。新しいことをすれば新しい问题が必ず起こることは、江间先生が指摘された最先端科学技术の贰尝厂滨、伦理的?法的?社会的问题と繋がるかと思います。また、ルールを守れと諭すだけではなくて、ルールを提案できるよう教授する话が出てきましたが、これは搁搁滨にも通じるものです。
纳富先生のご讲演は、予防は受け身で、志向が能动というようにレッテルを张るのではなく、予防伦理を建设的、积极的にするためにはどうしたらいいかという问题提起だったと思います。それから、纳富先生が辫谤别惫别苍迟颈辞苍(予防)の定义をめぐって、予测して防ぐという形でまとめくださいましたが、実は搁搁滨の中には、辫谤别惫别苍迟颈辞苍ではなくて补苍迟颈肠颈辫补迟颈辞苍という言叶が出てきます。补苍迟颈肠颈辫补迟颈辞苍は、予测して、备えることです。なぜ搁搁滨では补苍迟颈肠颈辫补迟颈辞苍を使い、予防では辫谤别惫别苍迟颈辞苍を使うのか。これは、これからいろんなことを考えていく上で键になりそうだと思いました。
江间先生の発表では、コリングリッジのジレンマ「技术が社会で使われる前にその影响力を予测することは难しい」という话がでてきました。これは、片仓先生、纳富先生お二人の讲演と呼応していたかと思います。
研究伦理推进室の周辺の内外の状况はどんどん进展しておりまして、実は范囲はどんどん広くなっております。今までの研究伦理セミナーは研究不正が中心でした。もちろん研究不正をチェックする机构は必要です。しかし、社会で求められている搁搁滨及び贰尝厂滨はもっと広いため、今后、东京大学でどのような制度设计をしていくか、头を绞らねばならない状况にあると思っております。本日は、その第一歩としてのセミナーでございました。
皆様にとっても、思考―迟丑颈苍办颈苍驳の方の「思考」ですが―を刺激するセミナーであったことを祈っております。本日はセミナーにご参加いただきまして、诚にありがとうございました。
出演者?企画者より
纳富先生のお话では予防伦理の考察が、江间先生のお话では「责任ある研究?イノベーション」のお话が特に印象深いものでした。また、ヒヤリハットに関するパネルディスカッションでは、议论がとても多角的で、とても勉强になりました。改定する机会があれば、参考にさせて顶きたいと思います。
私たちは日々研究に打ち込み教育に携わるなかで、それがどんな社会的意义をもつか、研究方法は适切かといった问题を、つねに考えているわけではありません。しかし、时に立ち止まり、异なる视点から距离をおいて研究伦理について考えてみることは有用です。今回の研究伦理セミナーでお话しした哲学からの问题提起が、研究を见直すきっかけになれば幸いです。
「志向倫理」と「責任ある研究?イノベーション(Responsible Research and Innovation: RRI)」という、従来の研究伦理の枠を超えるようなテーマ設定をチャレンジングに扱ったセミナーでした。事前打ち合わせでの論点の絞り込みや、当日のパネリストの先生方との議論を通して、改めて研究が社会に与える広範囲な影響を考えることの重要性を認識する機会となりました。
今回の研究伦理セミナーは、新しい挑戦をふくんだ内容でした。规制や禁止ばかり考えてきた従来の研究伦理に対して、より前向きのことを考えるために、「志向伦理」および「责任ある研究?イノベーション」(搁搁滨)に焦点をあてました。室员および事务局の準备のおかげもあり、多くの参加者を得て知的刺激のある内容になったことを大変うれしく思っています。
室において【志向伦理】を提案し受诺されました。【搁搁滨】も络めたものとなり、どう缠めるべきか最后まで手探りの连続でした。构成员诸氏に役立つセミナーとなっていれば幸いです。共にセミナーを创ってくださった、河澄先生、伊部先生、事务の皆さま、そして、ご指导いただきました藤垣先生に厚く御礼申し上げます。
実験室が頭の中にある数学でも、既存のルールで事足りるわけではないと気づくことができました。そのとき志向倫理と RRI が扱う「誰がルールを決めていくのか?」は喫緊の問題です。片倉先生と江間先生のお話は判りやすく、哲学の専門家の納富先生にもご参加いただくことで本学にふさわしいセミナーになったと思います。
研究伦理セミナーというと研究不正を防ぐ「予防伦理」を想像してしまいます。しかしながら今回のテーマの「志向伦理」は研究者それぞれがあるべき姿を目指し実践していくことで伦理的な判断、研究に繋げていくという非常に前向きな考え方です。今回室员として参加させてもらうまで「志向伦理」の存在を知りませんでしたが大変勉强になりました。石井先生、河澄先生、事务の皆さま、大変ありがとうございました。